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徒然なるままに、思いついたことを書き連ねます。
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自分の交遊録(社会人編1)
7月10日

 いよいよ社会人デビューすることになった。メンズビギのブルーグレーのスーツと同色ストライプのシャツ、ネクタイとベルトとクツはグッチに統一、カラーコーディネイトもバッチリだ。時計はオメガにグラサンはレイバン、プレイボーイのネックレス、髪はセミロングのパーマ(31年前の当時はフサフサしていた)バリバリのヨーロピアンだ。銀の指輪もハメ、アラミスのオーディコロンも振り掛けて行った。
 最初が肝心だ。トッポク決めて、ありきたりの新人には見られたくなかった。最初から同期の奴には差をつけてやる。デザイナーも多く、ハデな会社で、男より女の社員が多い。まずは、恋人探しだ。

 
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テーマ:暇人日記 - ジャンル:日記

自分の交友録(青年期2)
7月8日

 大学の入学式は、小・中・高と比べようもなく心が弾んだ。東京の大学には、全国から集まってくるからだ。どんな奴と知り合うのか、立教は女の子の数が多いから可愛い娘も多いだろうと、胸がワクワクした。
 入学式後、キャンパスには部活の勧誘で各部賑わっていた。自分は、高校時代ツッパッていたので真先に空手部を訪れた。立教は軟派だから大したことなかろうとタカをくくっていたのだ。道場に先輩に連れて行かれ、度肝を抜かれた。自分の髪型は、オールバックだったが、七三に分けた大人しそうな優男の先輩が、道場の板壁をブチヌキ「俺なんか強そうに見えないだろ」とうそぶいたものだ。正直ビビッた。
 しかし、乗りかかった船だから、しばらく参画することとした。当然長くは続かなかった。自分は女好きだし、キャンパス内を彼女と歩いていても先輩に会うと大声で「チワッス」と挨拶せねばならない。マージャンやっていても3年生が「次誰の番だ!」と問うと2年生が「ハ!ワタクシの番であります」と大声で最敬礼。酒を飲みに行っても「俺の酒が飲めねえか!」とドンブリに日本酒を注いでくる始末。1年や2年先に生まれただけで、軍隊じゃあるまいし、やってられるかと思った。
 幸い秋の検診で尿検査の時、糖が出たのでそれを理由に退部した。今から思えば、その頃から糖尿病の気配はあったのだ。
 結局、卓球やテニスの同好会に顔を出したり、自分達仲間で”プレイボーイクラブ”を発足し、ダンスパーティやらロック演奏会やら、他の女子大との合同コンパ・旅行など徹底的にハメを外した。
 4年間、自分はマージャンと女に明け暮れていたツケが、今回って来ている。学生時代から将来を見据えていた奴等は、国家試験を取得したり、一流企業就職のための勉学に勤しんでいた。
 プレイボーイクラブの1年先輩の会長も4年になると「俺に会いたければ図書館に来い」などとすっかり人が変り、現役で公認会計士の資格を取り、早々と独立。今では数社と契約し、立派な事務所を経営している。自分は法学部で、河内出身の親父がヤクザの幹部だった西川と親しくしてたが、彼はマージャンはやっても、授業はまじめに毎回出ていた。「俺が何のために大学来た思うとるんや?」彼は、高卒で組入りしたらしいが、組でも法律の必要性を感じての23歳で入学してきた変り種であった。その他、競馬狂いの加藤、親が死んでもマージャンに狂っていた梶原、俳優の中島久之(子供の頃より劇団雲所属)中川ダンス教室の御曹司中川、メンズルートコヤマの御曹司小山、田中角栄が保証人という十見(三人とも超プレイボーイ)堀切辺りで知らぬ者はいないという西入など個性ある面白い奴は一杯いたが、今でも付き合っている親友が四人いる。その中でも四橋が圧巻だ。親父は岐阜の県会議員を何度も務めたが、息子の彼は、高校時代、柔道で全国制覇、大学ではボクシング部のキャプテンで戦績も素晴らしかった。彼の実家に遊びに行くと、近くの柳ヶ瀬を案内してもらったが、肩で風を切って歩き、柄の良くない連中も皆挨拶して、除けて通っていた。ヤクザになった友人はいるが、ヤクザ顔負けの一般人は、彼しか知らない。学生時代にも東京のヤクザとの立ち回りを広げた。池袋にしろ、柳ヶ瀬にしろ、当時はガラが悪かったのだ。
 二人目の親友古田は、卒業後駒ケ根で法律事務所を開き、今では、地元の飲み屋街のバーに行くと先生・先生とおだてあげられ「いい娘が入りましたよ」と客についているホステスも優先的に紹介されている。フィリピンを始め、台湾・中国・韓国等を雇う店の面倒を見ている。
 三人目の河本は、学生時代英語が弱く、追試を代わりに自分が受けてやっていた。そんな奴でも親父が大会社の社長で、卒業後海外留学させてもらい、日本に戻ってきた時には、英語ベラベラ。今では親父のあとを次いで大会社の社長に納まっている。
 最後の新井は、兄貴が池袋の風俗店を経営しておりヤクザを用心棒として使用しているヤクザ以上の人だが、その兄を手伝うため一流企業を退職し、ボッタクリ店のマネージャーをやっていた。何度も警察に呼び出される謝り役だ。そんな生活が嫌になり、兄貴と喧嘩して堅気の会社を興し独立した。今では立派な経営者だ。
 皆楽しい奴等だ。今でも会って飲めば昔話に花が咲く。とにかく、大学4年間はアッと言う間に過ぎた。充分青春時代を謳歌したと思う。

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自分の交友録(青年期)
7月7日

 高校時代は、第二の誕生という。これまでは、両親や学校の先生に従っておれば良かったが、自分で考え、責任をもって行動していく時期なのだ。
 部活は、中学の延長で卓球部を選んだ。新入生歓迎には、OBも加わり、トーナメントを行ったが、自分は軽く優勝、先輩たちも相手にならなかった。近隣5校の新人戦でも優勝した。練習といえば、走れ!走れ!であり、毎日9キロマラソンだ。自分は長距離は苦手である。早速先輩達と練習方法でぶつかった。卓球は瞬発力であり、下半身強化が重要であるが、走ることより、腹筋を鍛えることが自分の持論である。ウサギ跳びは、この頃より禁止されていたが、他にも足上げ等方法はある。
 長距離に強い先輩達も、試合では自分に勝てない。3年になると大学受験勉強で、練習にも出てこない。自分もクラブより、遊んでいる方が面白いので、1学期で退部した。
 この時期、また父親の転勤である。高校まで移りたくなかったので、自分は東京に残ることにした。両親と弟は、西宮に移り、自分は母方の親戚に預けられた。一つ上と四つ上の従姉弟と同居した。彼らとあまり合わなかったので、自分の家でもないのに、始終友人を連れて帰った。
休みの日には、誰かしら来ていた。従姉弟の友人関係は少ないようで、ほとんど自分の友人たちが集まった。
 親戚の家なので外泊する訳にいかず、2年になると次第に気づまりしてきたので、西宮の親に一人で暮らしたいと相談した。幸い父親の勤務する銀行の子弟寮があったので、そこに移ることにした。周りはほとんど大学生で、高校生は自分を含めて3人であった。料理人兼管理人夫婦がいたが、朝晩の食事を出すだけで全く干渉されず、自由であった。電話さえ入れれば、外泊も自由であった。
 高校2年という多感な時期にこれほど自由だったため、生活は乱れた。酒も煙草もマージャンも女もこの時期すべて覚えた。こうなると勉強どころではない、毎夜遊び歩き、朝は眠くて1時間目の授業など出たことはなかった。高2は、まさに青春を謳歌した。
 夏休みには、両親のいる西宮へ戻ったが、万博開催会場のすぐそばだったので、東京の友人どもを入れ替わり立ち替わり呼び寄せた。夏休み期間中10数回万博に行き、東京から呼び寄せた友人どもと外人の女の子の尻を追っかけた。
 2学期になって学校に戻っても相変わらず遊び呆けていたので、3学期初めの進路相談の時には、西宮から母親も呼び寄せられた。母親は、自分の素行にビックリして、父親の単身赴任を決めた。前から買っておいた千葉の土地に家を建て、3年生からは、家から通うはめになった。
 3年の夏休みに駿台の夏期講習に通い始め、ここから受験体制に入った。駿台に通ってくる連中は、一流の私立高が多く、ほとんどは国立を目指していた。自分は、5教科の国立の勉強など間に合う訳もなく(皆高2から必死こいてる奴等だ)浪人はしたくなかったので、3教科の文系私立に絞り込んだ。高校の悪ガキどもとは、キッパリおさらばした。
 その甲斐あってか、立教の法学部と社会学部は無事パス。慶応法学部の筆記にも合格した。早稲田法学部のみ高校同様落とされた。もっとも慶応は2次の面接で落ちたがーーーー。一次試験合格の後、入学したらいくら寄付できますかとか、親や親戚に慶応出身者がいますかとかアンケートを送ってきた。そんなものある訳ない。面接など、形式的なものだけなのだ。馬鹿にしてやがる。そんな訳で立教法学部になった。今から考えれば、慶応閥は強いものだ。この頃より、反骨精神が養われたものと思う。
 とにかく、高校時代はほとんど勉強をしなかったが、恋愛・友情・世間勉強等大変有意義であった。貴重な青春時代であった。

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自分の交友録(少年期3)
7月6日

 小学校卒業まで千葉にいたが、中学時代は世田谷区で迎えた。津に続き千葉も想い出が多かったので、今回の転向はいやだった。まして、6年生の時には、好きな女の子もいたので、別れは辛かった。しばらく文通していたが、いつの間にか不通になった。
 クラブは卓球部を選んだ。小学6年の時、家のテーブルをつなげて皆でピンポンで遊んでいたのがそのきっかけだ。卓球というと皆楽だと思うようで、当初の新入部員は50人を超えた。しかし、体育館を使えるのは週3日なので、あとはグランドでの柔軟体操だ。足上げ、腹筋、うさぎ跳びなど、先輩が厳しく、実にきつかった。体育館で卓球台を使える日でも、新入生は素振りを続けながらの球拾いである。それこそ休む間もなかった。野球部員にも「卓球は厳しいよな。俺たちは守備の間休んでられるが、卓球は休む間がないからな」と言われたものだ。従って、夏休み前には、50人の部員が20人に減り、3年間続いたのは、わずか7人であった。自分は上手い方だったので、夏休み頃から打たせてもらえるようになり、2学期からは、Bチームに組み込まれた。1~3年生A・B各5人からなるチーム編成だ。1年生は、自分を含め3人だけだった。2年生になると3人ともAチームに昇進し、世田谷区の団体戦で優勝した。個人戦でも自分は、新人戦2位。ダブルスを組んだ1位の島田とは、世田谷区で優勝した。都では3回戦負けであった。
 3年間同じ釜の飯を食った島田とは親しかったが、高校卒業後国士舘大学、その後ヤクザとなったのには驚いた。今では幹部である。
 クラブ以外の友人とは、自転車で遠方までよく出かけた。今と違って車も少なく、危ないことはなかった。夏は、あちこちのプールへ行った。塾に通っているものもなく、受験勉強地獄などは感じなかった。中三の夏から受験体制に入り、ラジオのオールナイトニッポンを聞きながら、勉強したのを覚えている。フォークとエレキの花盛りで音楽は大好きだった。http://kurimasa.family-net.cc/music.hobby.html
 クラブも前述したように3年間続け、都大会にも3年になっても出場した。自分は都立を滑り止めとし、早稲田高等学院にチャレンジしたが、見事落とされた。結局、学校群最初の都立入学者となった。

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自分の交友録(少年期2)
7月5日

 三重県津市から小学4年の2学期前に、千葉市に転校した。時期がらお祭りだったので、転校草々親しくなった友人数人と自転車で出かけた。金魚すくいを始め、ライギョ釣りが目玉であった。獰猛なライギョを針に引っ掛けて、釣り上げるというものだ。体重が重く、糸も切れやすいものなので、釣れることはない。何度チャレンジしても無駄であった。その他、自分は射的が得意であった。しかし、重い物は当たっても落ちる訳がなく、取れるのはキャラメルか瀬戸物の小さな人形ぐらいである。今から考えれば、当たり前のことであるが、当時は悔しくて何度もチャレンジしたものだ。
 当時の千葉は埋め立て前で、千葉街道沿いまで海で海水浴もできた。海の家を営む友人が二人おり、よく泊まりに行った。夜になると2階の部屋から釣り糸を垂れて、ハゼやコチが釣れた。友人の一人は、運動神経抜群で2階からバク転で下まで降りることができた。
 潮が引くと海の家の柱周りに小魚が集まっており、裸足で歩くと足の下で動くのだ。夏は、潮干狩りもできた。
 近所の友人同士での登校・下校は実に楽しかった。学校では、ドッジボールが相変わらず盛んで、下校時の野原も含め、ほとんど毎日やっていた。津の時同様、毎日自分の家に数人遊びに来ていた。5年生の父兄参観日には、担任の先生が、自分の母親に「いつもうちの生徒がお世話になっております」と言わしめた。親にも参加してもらうゲームの時、担任が「誰のお母さんに参加してもらいましょうか」と生徒に問うと、一斉に「栗原君のお母さん」と言われ、母親も喜んでいた。
 今から思うと、小学生時代転校を重ねたにも拘らず、自分はクラスのリーダーシップを常に取ってていたように思う

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