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徒然なるままに、思いついたことを書き連ねます。
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自分の交友録(青年期)
7月7日

 高校時代は、第二の誕生という。これまでは、両親や学校の先生に従っておれば良かったが、自分で考え、責任をもって行動していく時期なのだ。
 部活は、中学の延長で卓球部を選んだ。新入生歓迎には、OBも加わり、トーナメントを行ったが、自分は軽く優勝、先輩たちも相手にならなかった。近隣5校の新人戦でも優勝した。練習といえば、走れ!走れ!であり、毎日9キロマラソンだ。自分は長距離は苦手である。早速先輩達と練習方法でぶつかった。卓球は瞬発力であり、下半身強化が重要であるが、走ることより、腹筋を鍛えることが自分の持論である。ウサギ跳びは、この頃より禁止されていたが、他にも足上げ等方法はある。
 長距離に強い先輩達も、試合では自分に勝てない。3年になると大学受験勉強で、練習にも出てこない。自分もクラブより、遊んでいる方が面白いので、1学期で退部した。
 この時期、また父親の転勤である。高校まで移りたくなかったので、自分は東京に残ることにした。両親と弟は、西宮に移り、自分は母方の親戚に預けられた。一つ上と四つ上の従姉弟と同居した。彼らとあまり合わなかったので、自分の家でもないのに、始終友人を連れて帰った。
休みの日には、誰かしら来ていた。従姉弟の友人関係は少ないようで、ほとんど自分の友人たちが集まった。
 親戚の家なので外泊する訳にいかず、2年になると次第に気づまりしてきたので、西宮の親に一人で暮らしたいと相談した。幸い父親の勤務する銀行の子弟寮があったので、そこに移ることにした。周りはほとんど大学生で、高校生は自分を含めて3人であった。料理人兼管理人夫婦がいたが、朝晩の食事を出すだけで全く干渉されず、自由であった。電話さえ入れれば、外泊も自由であった。
 高校2年という多感な時期にこれほど自由だったため、生活は乱れた。酒も煙草もマージャンも女もこの時期すべて覚えた。こうなると勉強どころではない、毎夜遊び歩き、朝は眠くて1時間目の授業など出たことはなかった。高2は、まさに青春を謳歌した。
 夏休みには、両親のいる西宮へ戻ったが、万博開催会場のすぐそばだったので、東京の友人どもを入れ替わり立ち替わり呼び寄せた。夏休み期間中10数回万博に行き、東京から呼び寄せた友人どもと外人の女の子の尻を追っかけた。
 2学期になって学校に戻っても相変わらず遊び呆けていたので、3学期初めの進路相談の時には、西宮から母親も呼び寄せられた。母親は、自分の素行にビックリして、父親の単身赴任を決めた。前から買っておいた千葉の土地に家を建て、3年生からは、家から通うはめになった。
 3年の夏休みに駿台の夏期講習に通い始め、ここから受験体制に入った。駿台に通ってくる連中は、一流の私立高が多く、ほとんどは国立を目指していた。自分は、5教科の国立の勉強など間に合う訳もなく(皆高2から必死こいてる奴等だ)浪人はしたくなかったので、3教科の文系私立に絞り込んだ。高校の悪ガキどもとは、キッパリおさらばした。
 その甲斐あってか、立教の法学部と社会学部は無事パス。慶応法学部の筆記にも合格した。早稲田法学部のみ高校同様落とされた。もっとも慶応は2次の面接で落ちたがーーーー。一次試験合格の後、入学したらいくら寄付できますかとか、親や親戚に慶応出身者がいますかとかアンケートを送ってきた。そんなものある訳ない。面接など、形式的なものだけなのだ。馬鹿にしてやがる。そんな訳で立教法学部になった。今から考えれば、慶応閥は強いものだ。この頃より、反骨精神が養われたものと思う。
 とにかく、高校時代はほとんど勉強をしなかったが、恋愛・友情・世間勉強等大変有意義であった。貴重な青春時代であった。
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テーマ:高校生日記 - ジャンル:日記

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